私が妻と結婚してから1年目のある日のこと。
1年ほど前から膵臓癌と診断されていた義父が闘病生活の末、私も含めた家族に見守られながら自宅にて息を引き取りました。もちろん私は義父の通夜と葬儀に参列しました。
義父の死化粧が済んだ後は親族で通夜会場に集まり、皆で埃を被ったアルバムをめくりながら義父との思い出話にふけっていました。
「あの時は、こんな事があった。」「そういえばあの時、義父はこんな事を話していた。」と妻の親族たちが語り合っているのを聞きながら、私の中で「義父の存在」というものが深みを増していくような感覚がありました。
寂しさのあまりかすすり泣く声が絶え間なく聞こえ、時折笑い声が聞こえながらも時は過ぎてゆき、気が付けば 「義父のおかげで、助かった。」「義父のおかげで今がある。」と、皆が口をそろえて話し始めていました。私は、こうした語り合う時間の中で義父の生きた証が受け継がれ、生きてきたことに意味や価値を与えてくれるのだと思いました。
夜は更け、深夜0 時を回る頃、親族を含む来客も帰路に付きリビングは暗くなっていましたが、義父を囲むように照らされた灯篭とキッチンの電気だけは夜を照らしていました。 そして、そのキッチンには義母の姿がありました。
義母は無表情でビールの空瓶を濯ぎ続け、ようやく片付いたかと思ったら、次は香典の確認や行政への届出書類の確認などに追われていました。
この時に私は、義母が最愛の人との最後の別れに向き合う暇も無く、義父が亡くなった瞬間から死亡診断書の受け取りや火葬許可の取り付け、葬儀に向けた準備に追われていたという事実に気が付き衝撃を受けました。
義母は親族や関係者への連絡、香典返しの用意、行政や金融機関への届出と、義父の亡きがらを横目に急を要する様々な作業に一人追われていたのです。
あの夜「今、義父の傍に一番いるべきなのは義母なのに。」と、私の心に訴えかけた感情は今でも忘れることはなく、「まいぱす」創業のキッカケとなり、そして、原動力にもなっているのは言うまでもありません。
1年ほど前から膵臓癌と診断されていた義父が闘病生活の末、私も含めた家族に見守られながら自宅にて息を引き取りました。もちろん私は義父の通夜と葬儀に参列しました。
義父の死化粧が済んだ後は親族で通夜会場に集まり、皆で埃を被ったアルバムをめくりながら義父との思い出話にふけっていました。
「あの時は、こんな事があった。」「そういえばあの時、義父はこんな事を話していた。」と妻の親族たちが語り合っているのを聞きながら、私の中で「義父の存在」というものが深みを増していくような感覚がありました。
寂しさのあまりかすすり泣く声が絶え間なく聞こえ、時折笑い声が聞こえながらも時は過ぎてゆき、気が付けば 「義父のおかげで、助かった。」「義父のおかげで今がある。」と、皆が口をそろえて話し始めていました。私は、こうした語り合う時間の中で義父の生きた証が受け継がれ、生きてきたことに意味や価値を与えてくれるのだと思いました。
夜は更け、深夜0 時を回る頃、親族を含む来客も帰路に付きリビングは暗くなっていましたが、義父を囲むように照らされた灯篭とキッチンの電気だけは夜を照らしていました。 そして、そのキッチンには義母の姿がありました。
義母は無表情でビールの空瓶を濯ぎ続け、ようやく片付いたかと思ったら、次は香典の確認や行政への届出書類の確認などに追われていました。
この時に私は、義母が最愛の人との最後の別れに向き合う暇も無く、義父が亡くなった瞬間から死亡診断書の受け取りや火葬許可の取り付け、葬儀に向けた準備に追われていたという事実に気が付き衝撃を受けました。
義母は親族や関係者への連絡、香典返しの用意、行政や金融機関への届出と、義父の亡きがらを横目に急を要する様々な作業に一人追われていたのです。
あの夜「今、義父の傍に一番いるべきなのは義母なのに。」と、私の心に訴えかけた感情は今でも忘れることはなく、「まいぱす」創業のキッカケとなり、そして、原動力にもなっているのは言うまでもありません。